『NEEDY GIRL OVERDOSE』(以降ニディガ)は、発売当初から気になりつつも、ついぞSwitchで発売の報があるまで手にとることがなかった。多分、買うきっかけが欲しかっただけなんだと今は思う。
そうやって重い腰をあげたわけだが、どうして最初に気になったのかといえばやはりヒロインの美少女力につきる。そして、本作ニディガは紛れもなく美少女ゲームであった。
目次
ネットでしか生きられない雨ちゃんを最強配信者にしよう
黒髪ツインテに地雷コーデ、承認欲求が強くて精神が弱く、そして性格の悪い女の子あめちゃんが、ケミカルな衣装に身を包んだインターネットエンジェル・超てんちゃんという姿に仮装して最強の配信者を目指すゲーム。というのが本作ニディガである。一言で言ってしまえば(一言が長い)このゲームはそれでおしまいだ。しかし、あめちゃんの説明や、そして配信者を目指すというのは、どれも非常に強い現代性を帯びているのは間違いないだろう。
特に承認欲求というキーワードは強烈で、SNS全盛の現代において聞いたことがないという人のほうが少ないはず。承認欲求が強いあめちゃんを配信者にするニディガはマルチ破滅エンディングとされているように、その結末は破滅的だ。しかし、企画・シナリオを担当したにゃるら氏によると、ハッピーエンドではないことが不幸ではないということや、あるいは破滅したとしても、それが不幸だとは限らないだろうと。
けいこく!
と、本文に入る前にここで軽く本レビューについての注意書きをしておく。本レビューは筆者が書きたいことを書きまくってしまった感が強く、ゲームシステムやらの紹介をするというところから外れてしまっている。ゲームシステムにも、例えばイベント回想見たかったなどの不満があるので触れておきたいこともあるが、それ以上に本作品やそれを取り巻くことに注力したほうがよりニディガの、なによりあめちゃん・超てんちゃんの魅力が伝わると考えたからだ。ということで多少毛色の違うレビューになってしまっていることは申し上げておきたい。
ODすると強烈な演出が入る
さて、マルチ破滅エンディングのニディガは、アングラという言葉がよく似合う。いや、似合うはずだった、というのが正確かもしれない。これはあくまで筆者の感覚なので同意されるかは難しいが、アングラはマイナーな作品であったり、そもそも陽の光が届かないようなものこそアングラにふさわしいと思えてしまう。本作は配信を扱っているということもあってか実況とも相性がよく、著名配信者たちにもプレイされている。ということは、必然的に一定以上の知名度を伴っているということにほかならない。
また、現代のそうした事情から、そもそもアングラが現代で非常に成立しづらくなった概念であることも間違いない。高度にネット化された社会では日の当たらないところが少なくなってしまった。もちろん、マイナーな作品であったり知名度がほぼない作品であれば今でも成立するかもしれないが、インフルエンサーがアングラ作品を好きであればたちまちオーバーグラウンドとなるだろう。
それを象徴する例が『MUSICUS!』(商標の関係で名前が変わっている)ではないだろうか。OVERDRIVEという美少女ゲームメーカーの最終作となった『MUSICUS!』は、クラウドファンディングという形で開発が予告され、CAMPFIREでは初となる支援額1億円を突破(CAMPFIRE全体で初!)。最終的には1.3億円以上までその額を伸ばした記録的なゲームだが、OVERDRIVEは何を隠そうエロゲメーカーである。
決してインフルエンサーの手によって支援額が多くなったわけではないものの、アングラなはずであったエロゲメーカーの作品が、これだけの支援額を集める。まさに現代でアングラが成立しづらい例ではないだろうか。一応補足しておくと、今作がこれだけの額を集めるに至った理由はシナリオライターの瀬戸口廉也氏の力によるところが大きい。会社名というよりかはライターのネームバリューによるものだった。
ちなみに、にゃるら氏の好きな作品も瀬戸口廉也氏のものであるので、気になった方はぜひにゃるら氏のnote(外部リンク)を一読してみることをおすすめする。話は逸れるが、ニディガが好みであれば『電気サーカス』は刺さるはずだ。
今美少女ゲームの話に触れたのも、にゃるら氏がそれに傾倒していたからという理由がある。にゃるら氏と唐突に出てきたがニディガの企画・シナリオを担当している方で、彼がいなければ本作品が世に放たれることはなかったし、超てんちゃんと出会うこともできなかった。まさに生みの親。
話を戻して、本作が目指しているのはそんなアングラな雰囲気漂う90年代後半の美少女ADVゲームだという。ドット絵にしたのもその時代を再現したいという気持ちがあり、ゲームシステムもプレイヤーがあめちゃんに働きかけられるというのは当時のゲームシステムのあるADVゲー、ということになるだろうか。
ここでアングラの意味を軽く確認しておきたい。アングラとはアンダーグラウンドのことで、公式的な説明だと商業を否定した文化・芸術のことを言うのだそう。そういう文脈で捉えれば、決して市場が大きかったとも言えないし、オタク=気持ち悪い、犯罪者という図式が今とは比べ物にならないほど強力だった90年代後半~の美少女ゲームはまさしくアングラにふさわしかっただろう。それにエログロを備えている作品もあった。ナンセンス、までいくとわからないが、美少女ゲームは陽の光がほぼ当たらない場所にあったのは疑いようがない。なにせアニメなどのサブカルチャーよりも一段と深いところにあったのだから。もちろん、当時のアニメもアングラの様相を呈していたことは間違いないだろうが。
翻って本作はどうだろうか。向精神薬が登場したり、承認欲求が強く精神の弱い女の子というのもアングラ感が漂っている。ただ、筆者が先程も書いたように、それでも本作は陽の光があたってしまった。そもそも承認欲求の強い女の子(あるいは男も)が珍しくなくなりつつある現代で、インターネットという紐帯によって辛うじて生きていられるというのは、一昔前ならアングラであったかもしれないが、今では強い現代性を帯びたメッセージとして発信される。だからこそ多くの人に共感を持って迎え入れられたに違いない。
もちろん、題材をカジュアルに用いすぎているという批判があるのも承知している。が、そうした批判がでるのは良くも悪くも本作に光が当てられてしまった結果だ。つまり、重ねていうが、それなりに共感を持っても迎えられている。仮に本作がR-18のエロ同人ゲームとして出ていれば、当然ながら40万本なんて数字がでるはずもなく、一部で話題のゲーム、という程度で終わってしまっただろう。そういう意味では、本来的なアングラさは持ち合わせているとは感じる。ただアングラということを論じるだけなのに様々なことを巡らせなければならないから、用語の使い方はとかく難しい。
さて、題材をカジュアルに用いすぎている、という点についてももう少し触れておきたい。これに関しては間違いなくカジュアルすぎるし、不健全だ。しかし不健全であるからこそ、本作は魅力的な作品として受け入れられているのではないだろうか。気軽にOVERDOSEしてしまう描写は人によっては受け入れがたく感じるかもしれないが、そもそも本作はあめちゃんが“まっとう”な人間になることを描く作品ではない。あめちゃんにとって、世間一般のまっとうさが“ハッピーエンド”であるとは限らないし、破滅的なものだとしても不幸だとも限らない。確かに幸せではないかもしれないが、仮に一般的な幸せを手に入れたとしても、あめちゃんは緩やかに窒息死してしまう。それもカジュアルな扱いだと言われてしまえば(偏見を助長するという意味合いでも)それまでだが、一方であめちゃん自身も決してまっとうさに悩まないわけではない。
記念配信の内容。本音がわからないからこそぐっと来るのかもしれない
若干ネタバレになってしまうので詳細は控えるが、本作の一応のゴール地点は100万人のファンを作ること。それ以外にも多数のエンディングが用意されているので、あくまで一応のゴール地点としておいた。途中、ファンが増えるたびに記念配信が行われる。1万人、10万人、25万人、50万人、そして100万人。筆者はその配信内容についぐっときてしまった。あめちゃんは超てんちゃんとしてまっとうなことを言う。おそらくそれの一部はあめちゃんの本心なのだと思う。実際問題外から見たら行動が伴っていないようにも思えるし、裏アカウントで毒を吐くこともしばしばだ。
そうした行動のせいで分かりづらいが、しかし彼女は超てんちゃんの発言のような”まっとう”さを持ち合わせているのではないか。いわゆる世間的なまっとうさに無頓着でいられるのだとしたら、精神なんて病まないし、それこそ悩んだりもしない。そもそも向精神薬を飲まない人間だっていろいろなことに悩んでしまうのだ。たとえ他人からみたら些末な出来事も、本人にとっては一大事ということもあり得る。ただし、プレイヤーにはあめちゃんの本音がわからない。彼女がどこにいるのかすらもわからないのだ。しかし、だからこそなのかもしれない。配信という場で、仮に超てんちゃんという仮面を被っていたとしても、彼女自身も本音だとあるいは気づいていないような発言だとついつい思えてしまった。だから、記念配信に心動かされてしまったのだろう。
しかし、ニディガはマルチ破滅エンディングである。きっと、超てんちゃんの発言のようにまっとうなことがわかっていてもそうはなれない人たちがいて、それを戯画的に扱っていることに拒否感を覚える向きがあるのだろう。だが、世の中そんな潔癖な人間ばかりじゃないはずだ。
「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という質問がかつてとあるテレビ番組で話題になったことがある。場には錚々たる知識人たちがおり、さらには大江健三郎も後に朝日新聞にこの問題に対して寄稿したそうだが、こんなに簡単(だと思われる)でシンプルな問についぞ誰も答えることができなかった。ちなみに、大江健三郎はこの質問に対して、まともな子供ならこんな質問をそもそもしない、というような主旨で封殺したそうだ。
現実でも上記のような“不健全”な質問はまともではないと退けられてしまうことがある。本作ニディガはどうだろうか。何度も言うが、不健全であることは間違いなく、加えて不健全さを自覚すらしているだろう。なにより不健全さとアングラさは強固に結びついているように筆者は思うからで、必然的にそうならざるをえない。そして本作を不健全だと退けてしまうことは簡単だ。否定しようもない。では、その不健全さを不健全であると退けてしまうだけでいいのだろうか。先程の質問の答えのように、まともではないと。
jineの選択肢によって髪型を変えてくれる美少女。画像はポニテ
しかし本作は、不健全であっても、破滅的であっても、それを肯定しているようにすら思えてしまう。だから、退けるのは、一つの作品の受容の仕方としては否定しないが、別の角度から認識してみてほしい。もちろん、その肯定の前提にはあめちゃんが美少女であるということが大きい。冒頭にも書いたように本作が気になった最たる理由はあめちゃんのビジュアルが可愛かったからということであるし、本作も美少女ゲームを作ろうとしていた。プレイヤーの評判を見ていると、肯定的な評価をしている人たちは多かれ少なかれ超てんちゃんの可愛さに惹かれている。
そしてこれはなにも男性だけではない。女性ユーザーにとってもそうだし、例えばゲーム内でもカワイイ超てんちゃんが好きで好きでしょうがないという少女がでてくる。“顔がいい”という、最近聞くようになったネットスラングに代表されるように、顔という最も表象的なものに人は惹かれてきた。一方で、おそらくここまで意図していないだろうが、現代において美少女を全面に押し出したゲームというだけでも筆者は“不健全”であると思う。もはや美しさを語ることは差別的な、あるいは犯罪的な行為となってしまったのだ。
だが待ってほしい。少なくとも本作に描かれているあめちゃんは、自身の顔のよさに自覚的でありつつも、だからこそそれにがんじがらめにされているように思える。メンヘラという言葉を使ってしまうが、なぜ顔の良いメンヘラが生まれてしまうのか。それはトートロジーのようになってしまうが、顔がいいからではないか。例えば金持ちがその金銭的裕福さのゆえに異性からモテているとしたら、誰も本当の自分を見てくれないと考える。それと同様のことがおそらくあめちゃんに降り掛かっているのではないだろうか。
だから、これは非常に残酷な物語である。顔のよさに自覚的であり、それを自身の最たる長所として、武器として使えば使うほど、なによりも求めていた繋がりがわからなくなってくる。もちろん、このことに関してはそこまで語られていないし、一定条件を満たすことで見れる彼女のトラウマからもそこまでは読み取れない。単に筆者が超てんちゃんをOVERDOSEしてしまった結果、過剰に反応してしまっているだけかもしれない。けれど、顔のよさに依存するしかないあめちゃんの物語は、そうした不健全さ、そして残酷さが、一部の人たちの心に強烈な痕を残すことになったのではないだろうか。
あめちゃんが望む承認は、インターネットのどこにも転がっていないのかもしれない。そして現実にも。それはきっと、彼女の顔のよさからくる呪いであり、そして皮肉にもインターネット上の顔のないファンたちはそこにこそ惹かれてしまう。そもそもあめちゃんが望むものはインターネットにはないのにも関わらず、インタンスな承認を求めて配信者として上り詰めてしまった。そうした流れがあるからこそ、本作はマルチ破滅エンディングなのだろう。当然、現実にも、と書いたように、頽廃的な生活を辞めたとしても、彼女の結末は……
ただし、先にも述べた通り、本作はそれを否定・バッドな結末として描いているようには思えない。インターネットに依存するしかなく、それによって破滅することすらもある。けれど、感傷的かもしれないが、それでもあめちゃんはインターネットに救われていたのも本当なのではないか。惜しむらくは、こうした肯定への力強さを本作から読み取るのは少しむずかしいということか。あるいは筆者の”妄想”ですらあるかもしれないし、力強い肯定ではなく、こういうのもあるよね、程度のマイルドな肯定を目指した作品だったのかもしれない。けれどこうして振り返ってレビューを書いていると、「これが人生だったのか。さらばもう一度」というような強い肯定が本作にあれば、とつい考えてしまう。
ここで唐突だが本作はどのようなプレイヤーに向いているのかを伝えておきたい。筆者は電波ゲーと呼ばれるものに造詣が深くないものの、おそらく叩き台にされているだろう作品と比べるとオチというか仕掛けの部分は十分想像できてしまうし、そもそもあまり隠そうともしていない。加えてにゃるら氏が好きだという瀬戸口氏などの作品に比べると、あまりにプレイヤーが機械的に過ぎる。言ってしまえば無機質だ。
プレイヤーはピという特権的な地位を与えられていながら、ピ自体があめちゃんという存在にのめり込むことがなく、ただ終わっていく。そういう意味で言うと本作は超てんちゃんという人気配信者の裏アカをたまたま知っていた、ピという役割をあめちゃんに持たされた、という受動的な作品となっている。だからだろうか。肯定的なレビューを読んでみると、超てんちゃんのファンになってしまったとか、超てんちゃんに逆に依存してしまったとかいうものが多い。多分、それは意図した作りになっていると思うのだが、一応ゲーム紹介という体裁を取っているため、これ以上は触れないでおく。
というわけで、プレイヤーが能動的にあれやこれやということを期待しているユーザーにはあまりおすすめできない。どちらかといえば、うわ、顔よすぎない?とか、それくらい軽いノリで本作が気になったユーザーにこそおすすめできる。本作ニディガを貫くのは、どこまでいっても“美少女”ゲームということだ。ちょっぴり精神が弱くったって、承認欲求が強くったって、なにより性格が悪かったとしても、あめちゃんは、超てんちゃんはインターネットに舞い降りたエンジェルというにふさわしい美少女だ。
また、電波ゲーというか、狂気を孕んだような作品として期待しすぎてしまうと肩透かしをくらってしまうだろう。狂気には理解不可能性が必要だと思う。『ドグラ・マグラ』でも自身の研究論文が誰にも理解されないだろう、理解とは価値が簡単に看過されてしまうということなのだから、というような内容があった。以上が示すように、狂気的な作品とされるものは、理解から程遠い。ゆえにこそ狂気でもある。では本作に狂気はあっただろうか。筆者としては、それはない、と断言できる。
確かにあめちゃんがなにを考えているかはわからない。ただ、彼女の行為やたどる結末が理解不可能性を帯びているかと言われれば全くそうではない。おそらくそうした作品であれば、steam上の評価はもっと割れていて、喧々囂々の議論になっていたに相違ない。比較的好意を持って受け入れられているというのが、本作が電波ゲー、狂気を孕んだ作品ではなかったという証左ではないだろうか。
しかし狂気がないからといって、ニディガが不安定な作品であることは変わりない。というよりかは、そもそもあめちゃん自体が非常に不安定な存在だから、必然的にそうならざるを得ないというべきだろうか。OVERDOSEの意味もそこに目を凝らしてみれば決して薬に対してだけではないことがわかるはずだ。
INTERNET OVERDOSEは本作のOP
顔がいいという呪いのせいで繋がりが希薄となってしまい、ついにインターネットに承認を求めるようになってしまった。だが、そこにも求めるものはなく、さりとてそこに依存するしかない。ネットは決してリアルではないが、かといってフィクションでもない。心無い言葉を見れば、誰が発言したものか分からなくても腹が立つこともあるし、悲しくなることもある。たかが言葉、しかしそれ以上にこちらをえぐってくる。けれどネットから離れるのも難しい。まさに、INTERNET OVERDOSEだ。
コメ欄に並ぶ俺も承認されたいという文字。また、「認識」も本作のキーワードの一つ
強い現代性を帯びた本作は、やはり現代だからこそやる意義があるように思える。それに対する反応は決して一様なものではないだろうし、結末をバッドエンドではない、と言い切れる人も一体どれだけいるのだろうか。ただ、一つだけ間違いなくいえることは、本作『NEEDY GIRL OVERDOSE』をプレイして、好きになってしまったプレイヤーの皆様にとってはタイトルが別のように見えていることだろう。NEEDY(な)GIRL(が)OVERDOSEしているのではなく、NEEDY(な)GIRL(を)OVERDOSEする。その結果、本作を好きだけど嫌い、あるいは好きとは言えない、というようなユーザーが多く発生したのだろうと考える。
さて、ここまで長く話してきたが、最後にもう一つだけ言いたいことがある。本作は、
という美少女ゲームである。そしてそれはにゃるら氏の頭の中にいた存在だ。これ以上筆者からはもうなにも言うことはない。いや、本当はまだまだ言いたいことはたくさんある。例えば超てんちゃんの配信内容であったり、KOTOKOが歌っている楽曲であったり、それこそここまでほとんど触れてこなかったゲームシステムなどに関してもそうだ。しかし、一見してゲームと関係ないことばかりをつらつらと重ねていく未来が見えたのでぐっと堪える。大人だからね。と、こんな余計なことを挟んでしまったらさらに言いたいことが増えてしまった。
「倫理観がぶっ壊れていて性格が最悪だが顔が良すぎて許される」
出典:エッセイ:脳内にだけ存在していた美少女
『NEEDY GIRL OVERDOSE』はsteamで絶賛発売中、Switch版は10/27日に発売予定だ。ここまで読んでみて興味を持たれた方、あるいはあめちゃん・超てんちゃんの美少女力に目がくらんでしまった読者の方々には購入をおすすめする。ぜひ最初のプレイは実況ではなく、自身でプレイしてみてほしい。他人と感想を共有するのはそれからでも遅くないだろう。決して無理やりまとめたわけではなく、全ては計画通りです。†昇天†
※ちなみに、ツイッター上に超絶最かわてんしちゃん(@x_angelkawaii_x)とあめちゃん(@raincandy_U)が存在している。サントラ告知で生配信をしたこともあった。インスタ(x.angelkawaii.x)もやっており、可愛いイラストも見れるのでぜひご照覧あれい。
総合評価 | ||
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7点/10 | ||
ストーリー | グラフィック | ゲーム性 |
7.0/10 | 7.0/10 | 6.0/10 |
キャラクター | サウンド | 快適さ |
8.0/10 | 8.0/10 | 6.0/10 |
【総合評価】 編集部が話し合いによって決める参考値です。総合評価は10点満点となっており、10点=神ゲー、5点=普通、1点=致命的のように点数が高いほどより面白いゲームと言えます。 【6項目評価】 世界観:世界や設定の出来栄えの参考値 グラフィック:映像や背景の綺麗さの参考値 ゲーム性:戦闘や収集要素などの面白さの参考値 キャラクター:キャラたちの魅力、背景の参考値 サウンド:ボイスやSE、BGM等の参考値 快適さ:ロード時間や操作性、運営の更新性の参考値 |
がっくり | 名前の由来はチャーハンを見ればわかる人はわかるはず。ゲームの好みは面白いもの。嫌いなのはつまらないもの。ゲームに限らず面白い作品が好き。 |
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初回特典 |
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※サントラはsteamのものと同内容
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あみあみ | Neowing |
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アクリルキーホルダー | 缶バッジ |
ゲーマーズ | ソフマップ |
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L版ブロマイド6枚セット | B2タペストリー |
ワンダーグー | よろずやショップびっく宝島 |
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ポストカードセット3種セット | スマホ風キーホルダー |
楽天ブックス | アニメイト |
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おくすりケース | ミニ色紙 |
amazon | ゲオ |
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デジタル壁紙&マウスカーソル画像セット | マジッククリアファイル |
ヨドバシカメラ | - |
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SNS風クリアカード | - |
タイトル | NEEDY GIRL OVERDOSE |
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発売 | WSS playground |
発売日・ハード | 2022年1月21日(PC) 2022年10月27日(Switch) |
ジャンル | シミュレーション |
プレイ人数 | 1人 |
対応言語 | 日本語/英語/中国語/韓国語 |
公式サイト |
『NEEDY GIRL OVERDOSE』評価・レビュー|美少女はインターネットエンジェルの夢を見るか?